レイン
少年の死
6月だった。
その夜のことを思い出そうとすると、なぜか最初に、雨上がりのような情景が浮かんでくる。しっとりと濡れた夜気の、温かくて、優しいイメージ。実際は雨なんて、降っていなかったのに。不思議だった。
私は友人に呼び出されて、一度も降り立ったことのない成増という駅に来ていた。駅舎はそこそこの大きさで、飲食チェーン店の照明が、夜をぼんやりと彩っていた。
知らない街というのは、気分が良い。誰も私を知らないから、自由な感じがする。それが夜だと、殊更に良い。夢の中に居るような、そんな気分になれる。
その日は、私の誕生日から幾日かが過ぎた夜だった。お祝いがしたい、ということで、友人から呼び出されていた。
友人は、よく贈り物をしたがる子だった。なんでもない日に手作りのお菓子をくれたり、似合うと思って……とはにかみながら、キーホルダーやぬいぐるみなど、会う度に何かしらくれた。
そんな子にお祝いをされるなんて、どんなに楽しいんだろう。何を貰うんだろう。
待ち合わせ場所で、優しい夜の暗がりに包まれながら、私はサンタクロースを待つ子供のようにそわそわしていた。幸福な時間だった。
だから、友人が現れた時も、抱えていた大きな紙袋が気になって仕方なくて、彼女の態度の違和感には気付けなかった。
あとになって考えてみれば、すべてがおかしかったのだ。その日に会う約束というのも、いつもは私に合わせてくれて、無理強いなんてしない彼女が、半ば強引に取り付けたものだった。
「彼、死んだんです。」
友人はそう言った。
始めは言葉の意味が、よくわからなかった。
駅の近くのファミリーレストランでは、私の大好物のマンゴーを使ったスイーツのキャンペーンがやっていて、友人は、花代さん、マンゴー好きだから、ここに入ろうと思ってたんだけど、大丈夫? と言った。私は、はしゃいで頷いたと思う。喜んで、そこに入った。
彼女の抱えていた大きな紙袋の中身は、私の大好きなキャラクターのぬいぐるみだった。以前、そのキャラクターの小さなぬいぐるみを彼女から貰ったことがあった。それが彼女からの、最初の贈り物だった。だから、今回はとびきり大きいのにしてみました、と言って、彼女は笑った。マンゴーのデザートは甘く、私は幸福だった。
「彼、死んだんですよ。」
私は思わず少し笑って、え? と聞き返してしまった。
彼というのは、友人を悩ませていた、ある男の子だった。
A君としよう。A君は友人と同じ大学の同じ学部で、教育実習中に自殺したと言う。つい先日のことだった。私と友人と、同じ年の男の子だ。私は何度も、彼女から話に聞いていた。
だから、私は呼び出されたんだ。
私はようやく、彼女の意図を知った。
また、彼女も、教育実習期間の真っ只中だった。
A君について
ふつう、死ぬか?
私は思った。何も考えられなかった。
つい昨日までふつうに暮らしていた人間が、自分の意思で、ふっと居なくなる。それは恐怖だった。今私が居るのは、紛れもない、A君の居ない世界なのだ。
知っている人間が一人、居ない。もう、二度と会えない。
それは身体のどこかをずっとくすぐられているような、妙な感じだった。拭いきれない違和感だった。
しかし心の半分で、私は別のことを考えていた。
成功したんだ。
なんの嫌味でもなく、純粋な感情だった。
彼は卑屈で、構ってちゃんで、死にたがりだった。もちろん、どれも話に聞いているだけだったが。
私は何度か、自殺を試みたことがある。どれも本気だったが、どれも失敗した。
だから、羨ましかった。
私は、心の置き所がわからなかった。悲しみに暮れるのは、違うと思った。だって私とA君は、何の関係もないし、そもそも面識すらないのだ。
もちろん、私がショックを受けたのは事実だった。しかしそれは、私が自分の良心を満足させるための、単なるエゴではないのだろうか。死者を材料に、なけなしの憐憫で自分を着飾っているだけなのではないのだろうか。だとしたら、なんて醜いのだろう?
友人は、彼が教育実習期間中に自室で死んだ、ということ以外は、何もわからないと静かに言った。学校側から与えられる情報というのは、その程度のものなのだ。
私も友人も、A君のことは、はっきり言って嫌いだった。
なぜなら彼は友人のことを好いており、嫌がる友人にしつこく言い寄っていたからだ。
彼に関する愚痴は、友人から百遍は聞いていた。Aのやつ、どっか行っちゃえ、というようなことを、一緒に口にしたこともあったと思う。非難しまくったし、その振る舞いに、気持ち悪いと本気で激昂したこともあった。憎しみすらあった。だって友人は、彼に電車の中で会うのが嫌なあまり、通学ルートの変更までしていたのだ。
でも、と友人は言った。
それでも、死んでほしいなんて、本気で思ったこと、一回も無かったよ。
私だってそんなの、一回も無かった。
そして、友人は気を使ってはっきりとは言わなかったが、彼が死んだのは、おそらく私の誕生日だった。
死の小部屋
そのことを私は、誰にも言わなかった。言えなかった。
A君が自殺をしたの。私は会ったことがないんだけどね、話に聞いて、よく知っている男の子だった。その子が、部屋の中で、一人ぽっちで死んだの。私はその子のこと、好きじゃなかった。居なくなればいいって思ってた。そしたら、本当に居なくなっちゃった。
違う。全然違う、そうじゃない。
何を言っても、何かが足りない気がするし、同時に、どこか喋りすぎているようにも感じる。
言葉が、つるつると、どこかを滑っている。そう感じた。私の手の上ではない、どこかを。
私はどういうふうに言えばいいのか、誰に言えばいいのか、すっかり途方に暮れていた。
そもそもこのことを誰かに言ったとして、何になるのだろう。悲しむ権利なんて、懺悔のように語る権利なんて、私にあるのだろうか。
そして、私のこの思い、説明のつかない、行き場の無いこれは、本当に悲しみなのだろうか。そう呼ぶには、あまりに不確かである気がした。
その頃、体調を崩しがちになり、私は保健室から、カウンセリングを受けることを勧められた。
その、白い小さな部屋の中で、カウンセラーの女性は、微笑みを湛えていた。
偽物の笑顔だ、と、私は思った。私もよく、そうやって偽物の笑い顔を作るから、わかるのだ。
それがいけないというわけではない。彼女にとっては、仕事なのだから。しかし、私はすでに、帰りたいという気持ちでいっぱいだった。
一応、一部始終をかいつまんで話してみた。彼女の見解は、こうだった。
あなたは、感受性が強すぎる。友人の友人、なんていう、言わば他人の死に、普通の人間はそこまで感じ入らない。
その見解には、何の重みもなく、私はただ、小部屋の奥を見つめるばかりだった。クランケにとって心地いいようにあつらえたインテリアの、小さな部屋。
例えば、と私は思った。例えば、最後の部屋というものがあるとするならば、それはここだな、と思った。ひどく息苦しく、狭くて白い小部屋。
どうしてだろう。
そこはどうしようもなく、死の匂いがしたのだ。
戦うよ
こんな話がある。
教育実習中に、辛さとストレスにより、実習に通っていた学校の門前で、首吊り自殺をしたという女の話。
真偽はわからない。友人の学部で語り継がれる、都市伝説のようなものだ。教育実習の過酷さを端的に表す、半ばジョークのような、ささやかな怪談。
A君の死を打ち明けてくれた時、友人は、泣いてはいなかった。
「もしも。」
友人は言った、
「もしも、彼の死が、そういう都市伝説のような扱いになって、来年、再来年、後輩たちがクスクス笑って話題に上げるんだったら……そんなやりきれないことって、あるのかな。」
その静かな声が震えていたのは、おそらく悲しみではなく、怒りのせいだった。
A君はすでに、都市伝説になりかけていた。
「A君が実習に行った学校には、A君の他にも数人の実習生が居て、一人一人に先生もついていたの。それなのに……誰も、わからなかったのかな?A君のこと、誰も、気付かなかったのかな。」
彼女の、伏せたまぶたの上の長い睫毛が、瞬きに合わせて揺れていた。
友人は、強かった。
その口調は、決して被害者を悼むものではない。勇者を称えるそれだった。
加害者家族を扱った本を、読んだことがある。被害者は、加害者を家族丸ごと憎むことで、やり場のない怒りを昇華しようとするのだ。
では、この場合はどうか。加害者も、被害者も居ない。
だからこそ、きっと、強くなるしかないのだ。
生きている私たちが。
「A君はきっと、戦って戦って、それでもダメだったんだと思う。それは、弱さじゃない。私も、まだ実習期間だから。戦うよ。負けたくない。」
生の匂い
あれから私の作品は、とりわけ「死」をモチーフにしたものばかりになった。
どういうわけか、それらは好評で、展示に誘われたりもした。そういうものが、私の持ち味だと評されることもしばしばあった。
つまり、死の匂いは、まだ私を追ってきていた。とても無視できない濃さで、まとわりついてきた。
そういうものは、たぶん、ある層の人間を惹きつけるのだと思う。実際、宗教を信仰するような純粋さと熱心さで、私の作品を好いてくれる人がぽつりぽつりと現れた。
あれからまた一度、自殺未遂をした。
負けたくないと言った、友人の横顔を思い出す。友人の顔は青白く、美しかった。
その横顔を思い出すと、一瞬ふわりと、雨上がりのしっとりとした、芳醇な香りが漂うのを感じる。
6月の、濃い緑。
それは、生の匂いだ。
死にたいくらいに、狂ったように、鮮やかな。